ノスタルジック '00 (7) 《羽化》

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この前の選択授業が終わった後に彼女とした会話が頭から離れないでいた。

もし彼女が書いた感想がなんの変哲もない内容だったら、わざわざ呼び止めてまであんな質問をしてきただろうか。

――ねえ、わたしの感想読んだ?

どの感想にも彼女の名前は書いてなかった。

ということは、彼女にだってぼくがどの感想のことをいっているのかわからないことくらい、わかっていたはずだ。

なのにあんな質問をしてきたということは...

感想さえ見ればわかるはずだと、伝えたかった...?

「はい、お菓子あげる」

隣の席に座っている新野さんが、個包装された小さなお菓子をぼくに差し出していた。

女子はいつも学校にお菓子を持ってきていて、授業の合間に食べているイメージがある。持ってきたお菓子はひとりで食べるわけではなく、仲のいい友達にあげたり交換したりしていることが多いようだった。

ぼくは学校にお菓子を持ってきてなかったから、いつも誰かにもらってばかりいた。

「お菓子ばっか食べてると太るよ」

「あ、言ったなー!」

彼女は怒ってぼくを叩くふりをした。

 

その日の放課後、生徒玄関で帰ろうとしている新野さんを見かけた。普段はこの時間に彼女を見かけることなんてなかったから、珍しいなと思った。

ぼくは彼女に声をかけた。

「今帰り?」

「うん、今日は部活が中止になったから」

ぼくは帰宅部なので授業が終わったらさっさと帰ってしまう。

彼女は授業が終わったら部活へ行くので、普段は見かけることがなかったのだ。

「何部だっけ?」

「言ってなかったっけ? 吹奏楽部」

この前彼女とした廊下での会話。あれ以来、彼女とそのことについて話すことはなかった。ぼくから切り出すのはなんとなく気が引けたし、彼女のほうからも何も言ってこなかったから。

でも、僕はどうしても聞きたかった。

「よかったらさ、一緒に帰らない?」

彼女の家がどこにあるかはわからない。でも中学は一緒だったんだから、方向くらいは一緒だろうと思った。

帰りの道中で、あの言葉の意味について聞きたかった。

「うん、いいよ」

 

歩いて学校に来ている彼女に合わせて、ぼくは自転車を押しながら彼女の横を歩いていた。

予想通りぼくの家と彼女の家の方角は一緒だったので、途中で分かれるまで一緒に帰ろうということになった。

彼女は自転車なら20分くらいの道のりを、片道一時間もかけて毎日歩いて通っているらしい。

体力のないぼくからしたら苦行以外の何物でもない。部活で遅くなるときもあるだろうし、暗い夜道の中歩いて帰って大丈夫だろうかと心配になった。

「そういえば榊くん、最初わたしのこと忘れてたよね」

「あれは...」

忘れてたというか、はじめから記憶になかったといったほうが正しい。そっちのほうがひどいからあえて訂正はしないでおくが...

「...榊くんってさ、中学のときと比べて、なんか変わったよね」

「え、そう?」

「うん、かっこよくなった」

中学の卒業式の後、初めて行った美容院。ぼくはそこで少し自分に自信が持てた。

周りから見たらちっぽけなことだったかもしれない。でもこうやって気づいてくれる人がいてくれる。それが嬉しかった。

気づいたらぼくの家と彼女の家の分岐点があるところの近くまで来ていた。

ぼくはあのことについて話を切り出した。

「この前、廊下でした話の続きなんだけど...」

「うん?」

「感想に名前書いてなかったから、誰がなんて書いたのかわからなかったんだよね」

「...うん」

「新野さん、なんて書いてくれたの?」

「...」

彼女は何かを考えているのか、何も答えずにうつむきながらトボトボと歩いていた。

まずいことを聞いてしまっただろうか。彼女のほうから何も言ってきてなかったということは、彼女としてはあれ以上聞いてきてほしくないことだったのかもしれない。

僕は彼女にかけるべき言葉を見つけられないでいた。

「...ねえ、後ろに乗せて」

唐突に彼女が言った。なんの脈絡もない言葉だったので、ぼくは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「この先、下り坂になってるでしょ。わたしを自転車の後ろに乗せて、滑り降りてよ」

彼女はそう言うと、ぼくの返答を待たずに自転車の後ろに乗ろうとした。

「ちょっと...」

「いけー!」

彼女の細い腕がぼくの腰をぎゅっと掴む。あたたかく柔らかな感触に、なんとも言えない気持ちになった。

夏の足音がもうすぐそこまで聞こえてきそうな暑い日。ふたりが密着しているところに汗が流れ落ちた。

たった数秒の彼女との二人乗り。着いたところは下り坂の終点。そこはぼくの家と彼女の家の分岐点だった。

「じゃあね」

彼女は軽やかに自転車の後ろから飛び降りると、小さく手を振った。そして自分の家の方角へと走っていってしまった。

走り去る彼女。残されたぼく。

そのときぼくは、走り去る彼女の後ろ姿を見ながら、芽生えつつあるひとつの感情を自覚しようとしていた。